便利は幸せか?不便は不幸か?僕の考えは・・・

縄文

今日は、

幸せ

をテーマに、書いていきたいと思います。

幸せとは目に見えるものではありません。

心で感じるものです。

では、どのような状態を幸せと言うのでしょうか?

それについての僕なりの考えを、これからお話しさせて頂きたいと思います☆

水がないのは不幸か?

ひとつ質問をさせて下さい。

あなたにとって、水が無いのは不幸でしょうか?

当然、僕たちは生きていくためには水は必要です。

水は空氣と並んで、僕たちにとって必要不可欠な存在です。

水無くして、僕たちは生きていくことができません。

僕たちの住む地球は水の惑星です。

では、水が無いのは本当に不幸でしょうか?

世界で水道水が飲める国は日本を含め、15カ国しかありません。

https://www.sarastear.com/blog/b3094/

僕個人としては、

水道水が飲める=安全

ではないと思っていますが、今回はその点は一旦置いておいて、多くの国では、生活のためのお水は完備されていても、飲用のためのお水は完備されていません。

そして、生活のためのお水すらも、完備されていない国が沢山あります。

世界人口の4割が水不足に直面、水資源問題の現状と対策
地球は、その3分の2が水で覆われた「水の惑星」とも言われます。 しかし、直接飲み水や農業用水として使うことのできる淡水はごくわずかで、世界では多くの人が水不足による貧困や、劣悪な環境での生活を強いられています。 また、水資源をめぐる紛争も後…

世界人口の約40%が水不足に直面しているという情報もあります。

僕たち日本人も他人事ではありません。

ただ、今回は、これが伝えたかったわけではありません。

世界には、必要な水を確保するために、1日のうちの多くの時間を割かなければいけない人たちがいます。

賃金のうちの50%を水のために使わなければならない人たちがいます。

こうした人たちは不幸でしょうか?

僕は、こうした人たちは不幸で可哀想な人たちだと思っていました。

完全に偏見ですね・・・

什一(収入の十分の一)献金

かつて僕は、ビジネスをガンガンしていた時に、さまざまな、ビジネス書や自己啓発本を読み漁りました。

仕事が古本販売業だったので、読む本には困りませんでした。

その中で、色々な成功哲学も学びました。

多くの本で共通して言われていることもありました。

その中の一つに、

豊かになりたければ、収入のうちの10%を寄付しなさい

といったものがありました。

恐らく旧約聖書の「什一(収入の十分の一)献金」が元になった考えだと思います。

僕も、こうした考えに影響を受けて、少しでも収入の10%を寄付できるように心がけました。

少しでも不幸な人たちを救いたい

インターネットなどで情報を調べて、ボランティア活動の応援や、寄付などもできる範囲で行うようにしました。

そんな中、Facebookで繋がったあるお友達から、

「皆んなでカンボジアに井戸をプレゼントしませんか⁉︎」

と案内を頂きました。

僕の中には、少しでも不幸な人たちを救いたい。という思いがあったので、当然その話に乗りました。

資金も集まって、無事、井戸をプレゼントすることができました。

僕がしたのは、お金の寄付だけですが、それでも、誰かの役に立てたことが嬉しかったです。

不便は不幸ではない?

僕たちが井戸をプレゼントしたところとは違いますが、その後、僕にとって、ある衝撃的なニュースが飛び込んできました。

それは・・・

ある部落の女性たちが、プレゼントされた井戸を自分たちで壊してしまった

というものです。

その部落では、水汲みは女性たちの仕事でした。

毎日、往復何時間もかけて行う、重労働です。

それ以外にもきっと、たくさんの仕事をこなしていたはずです。

井戸ができれば、間違いなく、肉体的にも精神的にも楽になるはずです。

生活も豊かになるはずです。

それなのになぜ、その井戸を自分たちの手で壊してしまったのでしょうか?

プレゼントされた井戸を壊した理由

僕たちの常識では、井戸はあったほうが良いにきまっています。

でも、そう思うのは、表面部分の偏った見方しかできていないからかもしれません。

なぜ、彼女たちが自らの手で、プレゼントされた井戸を壊してしまったのでしょうか?

確かに、毎日の水汲みは重労働です。

時には休みたくなることもあるでしょう。

しかし、水汲みの時間は彼女たちにとって、憩いの時間でもありました。

この水汲みの時間は、彼女たちにとって、水汲みだけの時間ではありませんでした。

大切な、コミュニケーションの時間だったのです。

水汲みの仕事がなくなった彼女たちは、街に出稼ぎに出ました。

でも、それは彼女たちが望んだものではありませんでした。

豊かさとは何でしょう?

答えは一つではありません。

見方も一つではありません。

これを読んでも、感じ方、捉え方は人それぞれだと思います。

それがどんな感じ方、捉え方であっても僕は否定するつもりはありません。

ただ、一つ言えることは、物事は多角的に見ることと、本質部分を見ることが大切だということです。

1日1.9ドル以下の生活水準の人たちを貧困層と定義しているそうです。

検索
貧困層とは、どのような状態の人々を指すのでしょうか。技術が進歩し、誰もが豊かさを享受できる時代になっても、貧困に苦しむ人びとは世界中に存在しています。貧困層の定義とその割合について解説します。

確かに、世界では多くの人たちが苦しい生活を送っています。

でも、僕は、こうしたお金基準で判断するやり方はとても危険だと思っています。

そして、こうした考え方は、僕たちに誤った先入観を植え付けることにもなり得ます。

確かに、僕たち日本人が1日1.9ドル(200円強)なら、苦しい生活になると思います。

でも、お金を殆ど必要としない、自給自足的な暮らしができている国や町、部落だったらどうでしょう?

確かに、毎日が重労働かもしれません。

生きるために、必死に働いているかもしれません。

でも、僕たちが貧困で大変だ。

少しでも手を差し伸べなければならない。

と思っている人たちの中には、それを必要としていない人たちもいるはずです。

どれだけの数がそうなのかは分かりませんが、おそらくかなりの数だと思います。

勿論、手を差し伸べなければならない人たちは大勢います。

でも・・・

僕たちの間違った判断によって、本当の豊かさを奪ってしまったらそれは本末転倒です。

1日の暮らしが1.9ドル以下でも、毎日が重労働で大変でも、それが幸せで、心が満たされた暮らしをしている人たちは大勢いるはずです。

自らの手で井戸を壊した女性たちも、仕事は大変だったけど、きっと、豊かで幸せで、充実した日々を送っていたのではないでしょうか?

人は、どれだけ大変でも、誰かのためになっていると思えるとがんばれるものです。

そこに生きがいと充実を感じるものです。

僕が一番豊かさを感じた日

今から30年以上も昔のことですが、小学校5年生か6年生の時に初めて、父親に連れられて、山小屋に泊まりました。

そこには、電気も水道もガスも何もありません。

水も、1kmくらい?(もっと短かったかもしれません)降った沢まで降りないと、汲むことができません。

生まれて初めて、そのような環境を体験しました。

僕はこの時初めて、

「なんて豊かなんだろ〜」

って心からそう思いました。

その時の情景や、山小屋の人たちとの会話、他の登山客のことなど、今でも鮮明に覚えています。

普段は7時起きくらいだった僕ですが、その時は4時頃、自然に目が覚めました。

すごく清々しかったです。

勿論、非日常だから。

というのもあるとは思います。

でも、あの時の感覚を思い出すと・・・

僕たちは、大切なものを見失っているのでは?と思ってなりません。

何もかも与えられる世の中。

お金さえあれば何でも手に入る世の中。

便利をお金で買える世の中。

時間をお金で買える世の中。

本当に、それは僕たちが望んでいる世界でしょうか?

僕はやっぱ・・・

もっと、自然と調和した暮らしがしたいです。

あの時感じたあの感覚をもう一度感じたいです。

そして、できたら自分たちの手で、そうした環境や世界を取り戻したいです。

きっと、僕以外にも同じように感じている人は大勢いるはずです。

そんな人たちと、力を合わせて・・・

クラウドファンディング挑戦中です!

最後になりますが、今、縄文のような丸い愛と調和の世界の創造(再生)を目指して・・・

今、クラウドファンディングに挑戦中です!

自給自足塾を発足して、縄文時代のような丸い社会を創造したい!
物価高!エネルギー価格高騰!これをピンチと見るか?チャンスと見るか?僕は大きなチャンスだと思っています!自給自足とは、作物を自分たちで育てるだけではありません。精神的にも、肉体的にも、経済的にも自立した暮らしのことをいいます。僕たちと一緒に縄文時代のような丸い社会を創造しませんか︎︎︎︎

チャレンジ終了まで、残りわずかとなりますが・・・

良ければ、ページだけでも読んで頂けたら嬉しいです!

そして、もし共感頂けましたら、少しでも応援やご支援、シェアなど頂けましたら嬉しいです☆

自給自足塾(自創塾に改める予定)メンバーも大募集中です!